2018.06.15 Friday 09:07

保育におけるチューン・インについて(2件)

(類似のご意見なので、併載しています。)

 

おはようございます。

保育の実践にTune inを何とかして持ち込もうと考えたときに、まだ混乱します。

実行機能や自己制御を育てるための関わり、その最も重要で基盤となるTune inと、子どもの姿から育ちや学びを読み取ろうとする保育者の自然な働きかけとしての「子どもと、子どもが興味を持っているものに興味を向ける」は全く違うものなのか。
それとも同じ線上にあるものなのか。

 

中村章啓 

 

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読書会で、ちょっと気になった、しかし重要と思われる点があります。掛札先生と高山先生の Tune in の内容理解の違いの有無です。

掛札先生は、集団保育では Tune in は無理である旨のご発言をされたと思います(1人の子に Tune in しても、他の子が来たら切られるから)。他方、高山先生は、環境構成により集団保育でも Tune in 可能である旨、発言されたと記憶しております。

両先生の見解は矛盾していません。しかし、そもそもお二人の Tune in は、掛札先生の内容が 高い「同調」であるのに対し、高山先生のがそれ程高い「同調」の理解ではないのではないか。

「静かにしている子どもたちほど、『手がかからない』から保育者は関わっていない」ことに注意していても、どうしても Tune in できないで終わる子が出てきてしまうことから、Tune in の理解が違うのではないか、と疑問を持っていました。 

 

Shigeatsu Fujita 


Comment:
2018/06/16 9:01 PM, 掛札逸美 wrote:
 私はこの本を、著者が伝えたい通りに訳し、その過程の中で著者がどのように考えたかを、引用されている論文等も読みながら理解しようとしました。私はこの分野の専門家ではないので、あくまでも本書の中身を伝えている状態です(自分自身がこれからこの分野を勉強していって、どうなるかはわかりませんが)。

 高山先生はこの分野の専門家ですから、私とは違うように本書をお読みになったでしょうし、私とは認識が違って当然、言うことが違ってあたりまえです。2人の間で共通認識(この言葉の意味は、上の「定義」の項をお読みください)を作ろうとしたことは一度もありません。見方や意見が「違う」のは、悪いことでもなんでもなく、価値なので。

 中村先生がお書きになっている「実行機能や自己制御を育てるための関わり、その最も重要で基盤となるTune inと、子どもの姿から育ちや学びを読み取ろうとする保育者の自然な働きかけとしての「子どもと、子どもが興味を持っているものに興味を向ける」は全く違うものなのか。それとも同じ線上にあるものなのか。」は大事な問いだと思います。

 ただ、エデュカーレの読者会の場でも申し上げましたが、「違うのか」「同じなのか」という二分法は、「良い」「悪い」、「正しい」「誤り」と同じようにつまらない議論だと思います。違うでしょうし、似ているでしょうし、「じゃあ、なんなんだろう」を語っていただけるとありがたいと門外漢は思います。

 Fujita先生は私と高山先生の「違い」を分析なさろうとしていらっしゃいますが、はい、上に書いた通り、違います。では、Fujita先生はどのようにお思いになりますでしょうか? 教えてくださいませ。私と高山先生がどう違うかがわかっても、それは違って当たり前のことであって、現場的に問題になるものではないでしょうから。Fujita先生がどう考えるのか、それに対して、皆さんがどう考えるのか、そこが重要だと思います。

 私は「安全」を手掛かりに多種多様、さまざまな保育園を見てきましたが、どんな保育園であっても、ゼロ歳児や1歳児の保育の中で、子どもにチューン・インしている(しようとしている)保育者の行動が、別の何かによって途中で切れてしまう様子を見ています。だから、あとがきに「1対3はありえない」と書いたのです(あとがきにも補足しましたが、「1対1でずっと向き合って、保育者がわあわあ話していろ」とは言っておりません。チューン・インを十分にできる環境を乳児に対して作るためにはこの基準ではダメだ、という意味です)。

 本書を訳した「研究アタマ」の門外漢としては、1日11時間、12時間(へたしたら15時間)掛ける週6日という保育の中、シフトでころころ変わる保育者が、とぎれとぎれであってもチューン・インすることの価値のデータ、または「無理だ」というデータを出すことが重要だと考えます。「チューン・インしているつもり」「できているつもり」は自己満足です。「できている」のであれば、「できている」データを見せる、それによって初めて「こういう保育の方法には価値がある」と言うことができるわけです。保育業界の中では要求されないことなのかもしれませんが、社会(企業、政治等)を動かすためには、データが必要です。

 研究デザインでしたら、考えるお手伝いをします(高山先生がご心配になっていましたが、現場の負担にならない研究デザインはいくらでも考えられるはずです)。社会心理学は研究デザイン自体の学問でもありますので。もちろん、「観察して、主観的に記述して終わり」は研究ではありません…。
2018/06/17 9:40 PM, Shigeatsu Fujita wrote:
「静かにしている子どもたちほど、『手がかからない』から保育者は関わっていない。」確かに、うちの2歳児クラスのHちゃん、Nちゃんは手がかからない子たちで、Tune in する機会がないままで終わることが多いため、気になっていました。

しかし、先週、昼食の時間、私がついているテーブルに、たまたま2人が座ったのです。いつもの2人は、特に残しもしなければ、お替りもしません。
私は、「(それは)お豆腐、フワフワだね♪」とか、「(それは)キュウリだね、カッパさんもだ〜いすき♪」などと、話しながら、Tune in を試みました。

すると、Hちゃん、Nちゃん、そして隣のテーブルから振り向きながら私を見ていたU君が、「お替り」を始めました。それも、5回も6回も。食事が楽しいからなのか、食欲が増したからなのか、その他の理由からなのかは、分かりません。

ただ、食事の場面でのテーブルという環境構成なら、1対3のTune in が可能であることが分かりました。

また、食事中はお喋りしすぎないこと、が常識ですから、Talk more へは移行できません。とすると食事の場面は、「3つのT」の適応(適用)場面ではないのでしょう。しかし、Tune in そのものは汎用性の高い手法なのだと感じました。

2018/06/20 7:32 AM, 高山静子 wrote:
実は先週体調不良で、読書会をふくめドリンク剤で乗り越えてきましたが、まだ頭停止が続いています。毎日見ている方には返信が遅くてすみません。

自分の関心と仕事の範囲を補足しますね。

私は、二項関係と三項関係をもっていない親子を発見してそれを支援する子育て支援を、複数のひろばで行っていました。そのため目に浮かぶ親子の関わりの姿の幅が大きいことが、この本の活用方法を考える上での前提にあると思います。

もちろん、子どもの気持ちにピッタリとチューニングできて、ピッタリの言葉を話せる保育者のエッセーなどを読むと心から素晴らしいと思い、あこがれます。

でも、私の関心は、「ない」を「ある」にするレベルで、理想的な関わりには、あまり関心がないのです。

私自身が、この本を通して、保護者と保育者に伝えたいチューンインのレベルは、三項関係をつくるレベルです。子どものやっていることに対して目と心を向けるレベル。子どもが喜んでいるときに、一緒に笑ったり話すレベルで、今それがない人が、それができるようになる、そのためには、私は何をすればよいのだろう、とそればかり考えております。

012歳の子どもの行動の理解は、親でも保育者でも難しいものです。たいていの子どもの行動が怒られます。私が保育者や保護者にこの本を通して伝えたいレベルは子どもに注意を向けて子どもをわかろうとすることレベルです。

(今こう書きながら、子どもに注意を向けると怒ってばっかりになるという人もいるかもと気づきましたが・・・)。

一方的に指示や言葉かけをしていた人が、子どもの興味や、やっていることを、「わかろうとする」ぐらいでも、かなり関係はよくなると思います。

親子でも、人間同士が完全にわかりあえることは現実的ではないですし、誤解やすれ違いは、人間関係では、日常的に起きることです。

また保育者も親も、四六時中、子どもを見つめて応答しているなんて不自然だし、子どもも迷惑だろうと思います。

環境を構成せずに、子どもに一方的に一斉に指示をする保育や子育て支援が、いまだ主流です。
この本は、そこを変える契機になると思います。
私にできることはここかと考えています。

この本は掛札先生が本当に膨大な時間とエネルギーを使って翻訳されました。読書会では、参加した皆様からも、学びたい、もっとよくしたいという強い気持ちを感じました。

この本を、それぞれの立場で有効に活用できれば、そしてその活用について共有できればと思います。
2018/06/24 11:55 PM, 掛札逸美 wrote:
 読者会に出席してくださった園長先生がその後、書き送ってくださった言葉が、私の考えをぴったり表しています。

−「あり方の問いなのに、やり方の話」をしている。−

 Honzの書評に書かれていたように、保護者にとってはまさにこの本は「やり方」の本。「そうなんだ、こうすればいいんだ。こうすると、赤ちゃんっておもしろいね!」という、方法。ダナたちが親に伝えようとしているのはこれ。

 でも、私が園を念頭に置いていた部分は「あり方」としての、この本。「3つのT…なんて、今の保育園/こども園でできるの?」「親の代わりに3つのTをするべきなのが、園? 本当に?」という「あり方」。その議論があって初めて、「やり方」としての本書の意味が出てくる。

 高山先生がおっしゃっている、「ない」を「ある」にする。その通り。まず、保育士の養成課程には「関わり」を教えるプロセスが「ない」。保育者なら「ある」はず、身につくはず、できているはず、と思っているのかもしれないけれど、じゃあ、どういう関わりが子どもにとって意味があるとこの文化の保育者が考えているか、そのコンセンサスは「ない」。定義も「ない」。あいまいな言葉はあるし、他の文化から翻訳してきた尺度もあるけれども、現場として、日々、使えるものさしや基準は「ない」(だから、睫收萓犬燭舛伴茲蠢箸發Δ箸靴討い襪錣韻任后そして、それが偶然なのか必然なのか、「三項関係の重要性」として今回、現れた)。

 「できているつもり」「やっているつもり」ほど危険なことはないというのは、安全の世界の鉄則です。保育は? 二項関係、三項関係、「できているつもり」じゃないんですか? その「あり方」の話を私は、この本を通じてしなければ、と思ったわけです、あとがきに書いた通り。でも、「やり方」の話になってしまう。「あり方」の話はしたくないのかなあ。「あり方」の話をすると、なにか不都合なのだろうか。

 個人や仕事、社会の成長や変化のためには、critical thinking(本書訳注のどこかに説明しました)が不可欠です。やり方だけでなく、あり方も常にこれでいいのかと疑念を持ち、見直し、こうしてみたら?と変えてみる。「待機児童」ありき、「長時間保育ありき」の社会でよいと考えるのかどうか、私が「今の保育のあり方」としてこの本の重要性を見出したのは、ここらあたりなのですが。
2018/06/25 12:00 AM, 掛札逸美 wrote:
追記:奇しくも、honzの書評で山本さんが「測れないものは変えられない」という言葉をひいてくださっていました。私が、保育にも科学を、研究を、この文化に根差した(定義と)尺度を、というのは、まさに「測れないものは変えられない」からです。

 米国式の心理学は自然科学ですから、なんでも「定義」(operational definition、操作的定義)をして「測る」。そして、介入する。また測る。それが「変える」ということです。
2018/06/25 1:52 PM, keiko oeda wrote:
「あり方を問うことに何か不都合なことがあるのか」

とにかく、二つの「いっぱいいっぱい」の問題、
1 人手不足で、時間的、物理的にいっぱいいっぱいという現場の問題、
2 今までの経験と勘で回すだけで自分のキャパいっぱいいっぱいという実践者の個人的問題、

はあるとしても、

個人的キャパのある実践者が、
物理的時間的制約を少しでも解除して、
コンセンサスや定義を固めていく必要性は感じます。
(もしくは、研究者が主導的に行ってもいいかもしれない)

それと同時に、
政治的に1の問題へのアプローチ、
研修等での2の問題へのアプローチを
ということでしょうか。

高山先生が言っているのは、
2のアプローチですよね。

チューニング、ターンインについては、
私は、その子が関わっている環境も含めて
チューニングすると考えるのが妥当だと思います。
その子どもから目を離した途端に、
チューニングしてないとは、考え難い。

たとえば、
粘土で何かを作ったら、
そこにその子の表現が立ち現れますよね。
絵本にしても、子どもが、アオムシを指差した時、
その指先のアオムシが子どもの表現になった
と解釈できます。
保育では、表現は子どもの一部と考えますから。
(あ、定義されてるかどうかわかりません!笑)

坂を登っている子どもがいて、
先生がその子から目をはなし、
坂を見て、「この坂のどこが面白いんだろう?」って
考える瞬間だって、チューニングしてると言えると
思います。登るは身体表現、
坂があっての身体表現ですから。


ただ、リアルタイムで、
「チューニング、トークモア、テイクターンできることをセット」で考えれば、
子どもが帰った後に、
「あの時、この坂のどこが面白ろかったのだろう」と考えるのは、
その場でトークモア、テイクターンできないので、
「アフターイメージチューニング」(残像チューニング)って命名し(笑)、
別のものだと解釈したいと思います。
2018/06/25 8:19 PM, 掛札逸美 wrote:
大枝さんの「あり方を問うことになにか不都合があるのか」がなぜ、カッコに入っているのかわかりませんが、私は保育の外の人間として、子育て、保育、仕事、社会の「あり方」を考えようとしています。本職である深刻事故予防でも「あり方」は考えてきましたが、この本と出会ったことで別の側面が加わった次第です。
2018/07/10 1:23 PM, keiko oeda wrote:
「あり方を問うことに何か不都合なことがあるのか」
そこについて、思ったこと、という意味でした。
保育現場のキャパの問題、
個人の資質の問題、
この2つであり方を問うことになるのだろうか、
と考えた次第です。
分かりづらくてすみません。
2018/07/10 2:21 PM, keiko oeda wrote:
(どこに書き込んだらいいか、
よくわからなかったので、とりあえず、ここにコメントします!)

先日の読書会の中で、掛札先生が、
「保育は楽しく明るい必要悪という立場でやらないと、保護者から子育てを奪ってしまう」と言われていました。

「深刻死亡事故」にかかわるご自身の仕事についても「なくなることを前提にやっているし、そうやって自分の仕事がなくなることを前提に行うことは極めて健全です」とも。

死亡事故がなくなれば、それに関する情報や研究が必要なくなるから、というのはわかるのですが、
保育もなくなったほうがよい、という立場だと言うことなのでしょうか?
小学校もなくなったほうがよい?

私は専門家の人が、子どもを育ててくれることに意義を感じているので、なぜ、保育が必要悪なのかがよくわからないのです。
現状のような、園によっては危なっかしい内容で、しかも長時間やっていてもないよりはいい、という意味でしたら理解できます。
(ただ、そうであれば、研鑽を積み、保護者と協力しながら保育している園の先生たちにとって、まるっと必要悪、と言われてしまうのはどうなのかなあーと。そもそも、保育者は保護者の代わりではないので


私は個人的には、赤ちゃん生まれたら、
1年間は保護者が保育園にきて、
プロの保育者と一緒に、
みんなで子育てし合えるというのが
理想だと思ってます。
ただ、お母さんやお父さんが病気のときなどは、
預かってくれる。これは絶対に必要な保育。
社会で育てるというのは、そういうことかと。

1歳児なら保護者は来てもいいし、
2歳になったら、子どもだけで。
徐々に集団へ送り出すイメージです。

掛札先生の考える理想の子育て環境というのが
どういうものなのかなと興味がわきました。

2018/07/10 3:04 PM, keiko oeda wrote:
追伸
今気がついたんですけど、背表紙のサブタイトル、
保育者が保護者になってる、というのは、
増刷分では修正されているのですよね?(^ ^;)
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